プロジェクト報告

インターネットと宗教に関する欧米の研究動向

黒崎浩行 hkuro@kokugakuin.ac.jp

『國學院大學日本文化研究所報』219、2001年3月、掲載
$Date: 2001/03/08 02:40:48 $

はじめに

「情報化と宗教に関する研究」プロジェクトでは、昨年三月、 財団法人電気通信普及財団の研究助成を受けて、 報告書『電子ネットワークの普及と宗教の変容』を刊行した。 理論・方法を扱う総論と、事例研究を行う各論の二部からなり、 その要旨は、昨年五月発行の所報第二一四号に記したとおりである。

そこでは、電子ネットワークと宗教とのかかわりに関する先行研究の検討に 一章を割いたが、欧米での成果については十分に言及できなかった。 また、最近日本で刊行された二つの関連書籍 (生駒 一九九九;国際宗教研究所編 二〇〇〇)でも、 あまり触れられていなかったように思われる。

インターネットの発祥地である米国、 同じ英語圏であるカナダと英国、また独自の発展を 背景にもつヨーロッパでは、 インターネットの普及と宗教とのかかわりに ついて、『タイム』をはじめとする一般誌の記事掲載や、 関連書籍の出版が数多くなされている。 それらは、しばしば深い洞察を含んでいるものの、 事件性を問うジャーナリスティックなものか、 実践的・実用的な観点から記されたガイドブックが 大半を占めている。 それにひきかえ、アカデミックな関心と方法による研究成果はきわめて乏しい。

本稿では、そのなかの重要と思われるものについて、ミクロレベルあるいは思想面と、 メゾレベルあるいは集団面とに分けて内容を紹介し、 その問題提起を検討する。 マクロレベルを省いたのは、 社会構造全般に焦点を当てつつ実証的に論じた研究がこれまで 見当たらないからである。

ミクロレベル、思想面

ミクロレベル、あるいは宗教思想面での問題提起をあらわしている 先行研究の一つとして、 S・オリアリー、B・ブラッシャー「インターネットの知られざる神―古代のアゴラから仮想フォーラムに至るコミュニケーション―」(O'Leary and Brasher 1996) を紹介する。

前半では、パウロから教父神学、中世スコラ神学、宗教改革に至る キリスト教の展開において、 レトリック、すなわちコミュニケーションの理論、形式、実践が いかにその思想を形づくっていったかを跡づけ、 この歴史のなかに現代のコミュニケーション空間を位置づけようとする。 後半は、コミュニケーション空間から、 コミュニケーションを行う主体の側へと考察の焦点が移る。そこで、 科学史家ダナ・ハラウェイの「サイボーグ・フェミニズム」に賛同し、 物質とテクノロジーによって動いている現代社会に対応するアイデンティティとは、 人間と機械が相互に依存するサイボーグであるとして、 この事実に立脚した「サイボーグ神学」を提唱する。

これはオーソドックスな筋道をたどった論考ではあるが、 問題が十分に消化されているとは言えない。 たしかに、電子ネットワーク空間では、 これまで自己そのものと思い込んでいた先天的・後天的属性が、 しばしば切り離されたり再接合したりでき、 その経験を通じて個人や集団のアイデンティティを相互により望ましい方向に 組みかえていける可能性がある。 このことは多くの心理学者、社会学者が指摘している (タークル 一九九八(一九九五):二四〇)。

だが、ハラウェイの議論 (Haraway 1991) に対しては、 フェミニズム内部でも、 主体を脱構築することがかえって精神/物質の二元論を復権させているという 批判がある(アンダマールほか 二〇〇〇(一九九七):一六三)。 実際に即して言うと、性別などの属性や身体のアプリオリ性を否定する 一見解放的な戦略は、 それらを交換可能な対象物として勘定することでもあり、 性の商品化や優生学的生殖技術の適用のような倫理的問題に対しては無力である。 そこで、(どのようにしてかわからないが) 再びアプリオリなものを確保するか、そうでなければ一切のアプリオリなものを 否定してもなお自己のみが引き受けられるものを跡づける論理が 求められることになる。

では、サイボーグ「神学」のほうは、 自律的な主体によって介入に抵抗することでは解けない問題に答える用意が あるのかどうか。そこまでの考察には至っていない。 しかしいずれにしても、次のことを問題提起として受けとることができる。 多元的アイデンティテイが実現される技術的条件のもとで、 いわゆる「自分探し」が加速し徹底化していること、 それ自体は一般的事実の確認にすぎない。 その帰結としてどのような歪みが生じており、 それが自覚されている場合いかにしてその解決が図られているのか。 そのような個々の実践を実証的かつ批判的に明らかにし、 そこに示される価値について考察を深めることが必要である。

メゾレベル、集団面

現代の宗教集団、 とりわけ新宗教運動(New Religious Movements)とインターネットとのかかわりは、 インターネットの普及当初から注目されてきた。 一九九五年(平成七)末から始まった、サイエントロジー教会と その批判者とのインターネット上での争いは、宗教問題という枠を超え、 言論の自由・表現の自由対信教の自由、あるいは、 一国での法的規制の無効性といった問題を提起して、幅広い分野から注目を集めた。 また、一九九七年(平成九)のヘヴンズ・ゲート事件では、 信者の勧誘やマインド・コントロールのメディアとしての インターネットの可能性ないし危険性が取りざたされた。

こうした事件などを背景に、 新宗教運動に関する情報提供機関である英国のINFORMは、 二〇〇〇年(平成一二)五月に、「新宗教運動とインターネット」と題する セミナーを開催した。 委員長のアイリーン・バーカー氏は冒頭の基調講演のなかで、 問題点を三つにまとめている。一つは、新しい多様なコミュニケーション形態が、 人々の宗教情報への接し方を変えていること。二つめは、 インターネットが教団組織の権威構造などにもたらす変化。 三つめは、誤った情報や公序良俗に反する情報の氾濫、個人や集団への攻撃に対し、 どのようにして防御できるか。これらの問題の考察に資するべく、 七本の研究報告がなされ、討議を交わした。

このように、宗教集団とインターネットとの関係は、 研究者も含めて大いに注目されている領域ではあるが、 論文として公表されたものはまだ少ない。 だが、これをたんに新しい現象として独立して分析するのでなく、 従来の理論との接合を試みた成果がいくつか見られる。

前述したサイエントロジー対ネットの争いを「資源動員論」によって分析した、 M・ペッカム 「社会運動/対抗運動の相互作用の新次元―サイエントロジーとそのインターネット上の批判者の場合―」(Peckam 1998) を見てみる。

資源動員論は米国で一九七〇年代に登場した。 「不満」を運動発生の中心的な説明要因とみなす 従来の社会心理学的な集合行動論を批判し、 集合的な行為主体による 組織化の能力と動員によって運動が生み出されるとして、 その戦略的有効性を問うことを課題としている(長谷川 一九九〇:一一―一二)。 ペッカムはまず、資源動員論の問題として、 運動と対抗運動の相互作用について検討した例が少なく、 その場合でも、国家、政府機関に影響を与えることを 双方の目標としたものが大半であったことを挙げる。 しかし、サイエントロジー対ネットの争いの場合、 法廷で争われ、ロビー活動を展開する局面があったものの、 一国家を動かすことが成功の指標ではなくなっている。 また、運動と対抗運動との相互作用において、 何が「資源」として争奪されているか、という点についても、 金銭や人員に加え、 インターネットに特有のものとして「帯域幅」(情報の容量)と 「匿名性」を新たに加えることができる、とし、 何が資源かはそのつど文脈に依存することを指摘する。

L・ドーソン、J・エヌブリ「新宗教とインターネット―新しい公共空間でリクルートする―」(Dawson and Hennebry 1999) は、 逆に、従来の新宗教運動に関する研究にもとづいて、 新宗教運動とインターネットについての巷間の説に疑問を投げかける。 伝統的な共同体から離れ、教育水準の高い若者が主なユーザーである インターネットのコミュニケーションは、 伝統宗教よりも新宗教運動に親和的だとする説が、 ヘヴンズ・ゲート事件などをきっかけとしてマスコミなどで流通している。 たしかにネットユーザーの社会層は新宗教信者の層と重なる。 しかし、従来の研究は社会過程としての入信に注目してきた。それによれば、 勧誘者が友人や隣人であるといった既存のネットワーク、 特定の人物との情緒的な関係、 既信者との集中的な相互行為といった要件がきわめて重要である。 これらがインターネットによってどう変化しているかを検討しなければならない、 とする。

いずれの成果も、インターネットの普及が宗教集団にもたらす変化を 的確に読みとるためのツールとして、従来からの精緻な宗教社会学理論の蓄積が 有効に活用されている例とみることができる。

結語

ミクロレベルないし思想面では多元的アイデンティティの追求がはらむ歪みと それに対処する実践への注目、メゾレベルないし集団面では 既存の宗教社会学理論との接合およびその再検討、 という問題提起を抽出した。これらの視点は、 欧米と日本との間にある宗教文化の差異のために移入できないというような 性格のものではないと思われる。むしろ、 現在の日本をフィールドとするときに生じる困難は、「IT革命」という新たな看板を 掲げて何度めかの情報化推進の波が押し寄せている社会情勢のなかで、 批判的な視座をいかに確保できるか、ということにあるのではないだろうか。

付記

資源動員論については大谷栄一氏(国際宗教研究所)よりご教示と文献の紹介をいただいた。ここに記して感謝したい。

参考文献

アンダマール,S.,ロヴェル,T.,ウォルコウィッツ,C. 二〇〇〇(一九九七) 『現代フェミニズム思想辞典』奥田暁子監訳、樫村愛子・金子珠理・小松加代子訳、明石書店。

Dawson, Lorne L. and Hennebry, Jenna 1999 "New Religions and the Internet: Recruiting in a New Public Space," Journal of Contemporary Religion 14(1): 17-39.

生駒孝彰 一九九八 『インターネットの中の神々―21世紀の宗教空間―』平凡社。

Haraway, Donna J. 1991 "A Cyborg Manifesto: Science, Technology, and Socialist-Feminism in the Late Twenties Century," in Simians, Cyborgs and Women: The Reinvention of Nature. New York: Routledge, 149-182.

長谷川公一 一九九〇 「資源動員論と「新しい社会運動」論」社会運動論研究会編『社会運動論の統合をめざして―理論と分析―』成文堂、三―二八。

国際宗教研究所編、井上順孝責任編集 二〇〇〇 『インターネット時代の宗教』新書館。

O'Leary, Stephen D. and Brasher, Brenda E. 1996 "The Unknown God of the Internet: Religious Communication from the Ancient Agora to the Virtual Forum," in Ess, Charles (ed.), Philosophical Perspectives on Computer-Mediated Communication. State University of New York Press, 233-269.

Peckham, Michael 1998 "New Dimensions of Social Movement/Countermovement Interaction: The Case of Scientology and its Internet Critics," The Canadian Journal of Sociology 23(4): 317-347.

タークル,S. 一九九八(一九九五) 『接続された心―インターネット時代のアイデンティティ―』日暮雅道訳、早川書房。


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